2009年11月6日金曜日

第14回 愛媛教育会館

Ehime Education Hall
[image: "Ehime Education Hall" on flickr, by ida-10]



Ehime Education Hall
[image: "Ehime Education Hall" on flickr, by ida-10]



Ehime Education Hall
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Ehime Education Hall
[image: "Ehime Education Hall" on flickr, by ida-10]



この建築の特徴を捉えるにあたり、まず、建築の「様式」について見ていきたいと思います。

世界各地の建築には、それぞれの地域の宗教、気候、文化、社会的な要請等、様々な背景から多種多様な「様式」が生み出されています。そうした様式は歴史的にも変化を続け、例えば西洋建築を取り上げても、ゴシック、ルネサンス、バロック…など歴史の流れに伴って様式が変化していることが見て取れます。

そうした様式に世界的に大きな変化が訪れたのが、19世紀末から20世紀にかけての近代化に伴って登場した「モダニズム建築」と呼ばれるものです。日本では明治時代から大正時代に当たりますが、この時代には日本にも鉄筋コンクリートの技術が伝来し、現代の建物にも通じる近代的な建築が建設されるようになりました。つまり、白くて装飾の無い「箱」のような「モダニズム建築」が日本でも見られるようになりました。

しかし昭和に入り、日本ではこのモダニズム建築に対抗した様式が見られるようになりました。1930年代の一時期にみられる「帝冠様式(ていかんようしき、帝冠式とも)」です。帝冠様式は、明治以降に建てられるようになった、鉄筋コンクリート造の「モダニズム建築」の上に、日本的な「瓦屋根」を乗せた様式で、代表的なものに、東京・上野の東京国立博物館などが挙げられます。

昭和に入ってから帝冠様式が見られるようになった理由には諸説ありますが、「鉄筋コンクリート+瓦屋根」という外観からちょっと変わった印象を受けるのは確かです。

前置きが長くなりましたが、「愛媛教育会館」もそうした帝冠様式の特性を受け継ぐ貴重な建築といえます。現代的な「箱」の上に屋根が乗せられた外観。建てられたのも1937年ですから、帝冠様式が建てられた時代にちょうど合致します。

しかし、この愛媛教育会館は他の帝冠様式の建築とは少し異なっているようです。

というのも、この建築は「木造」による建築だからです。帝冠様式は「鉄筋コンクリート造」である、というお約束がありました。この建築もパッと見たところ鉄筋コンクリート造の建築に見えますが、実際は木造であるようです。さらに細かく見ると、屋根も「瓦」屋根ではなく金属板によるものです。

このように見ると、「帝冠様式」と見せかけて実は木造3階建ての建築、という愛媛教育会館はなかなか珍しい建築であるといえそうです。階段まわり、ホール、装飾的な照明など内部にも見所がいっぱいです。



設計:浅香了輔(愛媛県技師)
所在地:松山市北持田町131-1(地図
主要用途:行政施設
階数:地上3階
竣工:1937年
登録有形文化財

2009年9月29日火曜日

第13回 愛媛県美術館

The Museum of Art, Ehime
[image: "The Museum of Art, Ehime" on flickr, by ida-10]



The Museum of Art, Ehime
[image:"The Museum of Art, Ehime" on flickr, by ida-10]



The Museum of Art, Ehime
[image: "The Museum of Art, Ehime" on flickr, by ida-10]



愛媛県美術館は、松山城跡内(三之丸)にある美術館です。ここに美術館が建てられる前は、丹下健三が設計した「愛媛県民館(1953年竣工)」が建っていました。丹下健三設計の建築が取り壊されたことは残念ですが、その跡地に建てられたこの愛媛県美術館も、見所の多い建築です。

エントランスロビーの空間、そこには設計者が「宝石箱」と見立てた展示室が空中に浮かび、浮かんでいる展示室と展示室の間を通路が繋いでいます。

この建築は周辺の環境をうまく利用した建築ともいえます。まず、エントランスロビーを入った正面には樹齢130年を超えるクスノキが茂っていて、空間はその木々を中心として構成されています。この美術館を訪れるとどこか落ち着く気がするのは、このクスノキの存在によるところが大きいように思います。また、2階の展望ロビーからは、目の前に広がる城山の緑と松山城を見渡すことができます(「愛媛県庁舎」も見えます)。

展示構成としては、モネやボナールなどの常設展が中心となっています。郷土出身のグラフィックデザイナー、杉浦非水のコレクションや足あとが充実しているのも特筆すべきでしょう。


設計:愛媛県土木部+日建設計
所在地:松山市堀之内(地図
主要用途:美術館
構造:プレキャストコンクリート圧着工法、鉄筋コンクリート造、鉄骨造
階数:地下1階、地上3階
竣工:1998年
建築面積:3,519m2
延床面積:10,920m2

利用案内:
開館時間:9:40~18:00 (入室は17:30まで)
閉館日:月曜日(ただし毎月第一月曜日は開館、翌火曜日が休館)、年末年始
外部リンク:愛媛県美術館

2009年8月29日土曜日

第12回 愛媛県総合科学博物館

Ehime Prefectural Science Museum
[image: "Ehime Prefectural Science Museum" on flickr, by ida-10]


愛媛県総合科学博物館は、様々な体験を通して科学に関する知識を学べる博物館です。設計したのは、都知事選・参院選への出馬も記憶に新しい、故・黒川紀章(1934-2007)。日本を代表する建築家のひとりといっていいでしょう。東京・六本木の「国立新美術館」も氏の作品のひとつです。


Ehime Prefectural Science Museum
[image: "Ehime Prefectural Science Museum" on flickr, by ida-10]



Ehime Prefectural Science Museum
[image: "Ehime Prefectural Science Museum" on flickr, by ida-10]



Ehime Prefectural Science Museum
[image: "Ehime Prefectural Science Museum" on flickr, by ida-10]



近未来的な外観は、円錐(えんすい)形のエントランス、球状のプラネタリウムなどの幾何学のボリュームから構成されています。

中でも円錐形のエントランスはこの建築の最大の特徴です。円錐形のボリュームは、建物の入り口であり、それぞれの展示室を繋ぐスロープとなっています。さらに水面に浮かぶようなプラネタリウムへも、この円錐形のボリュームの地下からアクセスします。つまりこの円錐は、博物館の起点と終点であり、人々の移動の動線を可視化したものでもあるわけです。

休日などには、この円錐に人が集い、そして人々がスロープをくるくると回る光景が目にされます。黒川は様々な建築で円錐を用い、そしてそれぞれの円錐に意味を与えました。この博物館の円錐は、黒川の多くの建築の中でも「楽しい」ものといえるように思われます。


設計:黒川紀章建築都市設計事務所
所在地:愛媛県新居浜市大生院2133-2(地図
主要用途:博物館
構造:鉄骨鉄筋コンクリート造 一部鉄筋コンクリート造 一部鉄骨造
階数:地下1階 地上6階
竣工:1994年
建築面積:10,539m2
延床面積:24,290m2

利用案内:
開館時間:9:00-17:30
閉館日:月曜(ただし第一月曜は開館し翌日休館)、年末年始、その他臨時休館日あり
外部リンク:愛媛県総合科学博物館

2009年8月21日金曜日

第11回 別子銅山記念館

Besshi Copper Mine Memorial Museum
[image: "Besshi Copper Mine Memorial Museum" on flickr, by ida-10]



Besshi Copper Mine Memorial Museum
[image: "Besshi Copper Mine Memorial Museum" on flickr, by ida-10]



Besshi Copper Mine Memorial Museum
[image: "Besshi Copper Mine Memorial Museum" on flickr, by ida-10]



別子銅山は新居浜市(旧・別子山村)の山ろくにあった銅山で、江戸時代(1690年)から1973年までの約280年間にわたり銅が産出されました。開山以来、一貫して経営したのが住友家で、これが現在の住友グループの礎(いしずえ)となり、新居浜市の発展のみならず、日本の近代化に寄与しました。

かつて別子銅山のあった山ろく部への入り口にあるのが大山積神社で、これは銅山の開山に伴い、大三島(今治市)より分霊され建立されたものです。「別子銅山記念館」は、別子銅山の閉山後、この大山積神社の境内に建てられました。

この建築の屋根には一面にサツキが植えられ、5月には満開の花を咲かせます。一見すると「巨大な花壇」のようですが、この下は半地下の構造になっており、別子銅山の歴史や技術を後世に伝えるための様々な展示がなされています。このようなデザインを用いたのは、神社との調和に配慮したからでしょう。現在の屋上緑化を先取りした建築であり、また今治の「亀老山展望台」で建築家・隈研吾がみせたような「建築を隠す」手法を先取りしたものともいえるのではないでしょうか。

記念館の内部は(展示物のためでもありますが)照明が落とされ、薄暗い照明計画がなされています。銅山の内部を思わせるような空間が意図されたのでしょう。天井には一か所だけ天窓が設けられ、銅山の稼動許可日の5月9日の正午にのみ、ここから太陽の光が差し込むそうです。


設計:日建設計
所在地:新居浜市角野新田町3−13(地図
主要用途:記念館
構造:鉄筋コンクリート造
階数:地上2階
竣工:1975年
建築面積:946m2
延床面積:1054m2

利用案内:
営業時間 9:00-16:00
休業日 月曜日・祝日・年末年始

2009年8月15日土曜日

[interview vol.01] 竹内陽介(ラ・ミールカンパニー)

[interview vol.01]
竹内陽介
ラ・ミールカンパニー代表取締役


新居浜市の「カフェ・ラ・ミール」は三角形の外観が特徴的なカフェで、2006年末のオープン以来、地元の人々をはじめ多くの人々に親しまれています。今回のインタビューは建築の「発注者(オーナー)」に注目し、カフェ・ラ・ミールを運営する竹内さんに、この建築ができるまでと、これからの話について伺いました。

Cafe La Miell
[image: "Cafe La Miell" on flickr, by ida-10]



「愛媛に無いもの」を求めて



――このカフェができるまでの経緯を教えてください。

竹内:以前、新居浜大丸の中でカフェをやってたんですよ。大丸が閉店したのが8年くらい前ですが、それと同時にカフェも無くなってしまったので、そのときに独立してこちらに移ってきました。この建物の向かい側にも店舗がありますが、そこでカフェをやっていました。

――向かい側のカフェが人気が出て、こちらに広げることになったということですか。

竹内:そうですね。いくつかのカフェや雑誌を見たりしましたが、そこで谷尻さんの建築が載っていたのをみつけました。あ、これいいな、って。店舗も住宅も見ましたね。

――どのような依頼をされたんですか。

竹内:「愛媛に無いもの」を求めて考えてもらいました。自分は建築が専門じゃないから、想像力も知れているじゃないですか。私たちが考えても普通の建築しか浮かんでこない。自分の想像を上回るものを考えてもらおうと、谷尻さんに案を出してもらいました。そうじゃなかったら建築家に頼みません。


Cafe La Miell
[image: "Cafe La Miell" on flickr, by ida-10]




建築家のアイデア、オーナーのこだわり


――特徴的な外観ですが、この三角形の案は初めから出ていたんですか。アイデアはどのように形になったんですか。

竹内:三角形の案は最初から出てきましたね。外装についてはエコっぽく…屋上緑化のようなものをお願いしましたが、管理上難しいということで、石になったんです。県からも、石がずれないように、と…。

――石もちゃんと固めて、落ちないようになっていますよね。

竹内:庭師さんがいましたし、そこはきちんとやってくれました。施工はジョー・コーポレーションさんにお願いしたんですけど、あのような大きい会社じゃないと難しいようですね。

――緑もいっぱい植えられていますよね。建物に隙間を設けて植えているので、内側からは中庭みたいな感じで、お客さんの居場所がつくられてるように思います。

竹内:場所ごとに見えるシーンも違いますね。一部地下になってますけど、もともとここは田んぼで、1m50cmくらい下がってたんです。だから地下に駐車場をつくろうとか、いろんなことを話しましたね。でも、5年前に新居浜で水害があったんですよ。また起こったらいけないので、床を上げてくれという話をしました。谷尻さんとはそのような色々な話をしましたが、結果的に想像以上のものができたと思っています。10年経っても古くない建築だと思うんですよ。小学生くらいの子どもも、変わった建物があるといって喜んでますね。

――外にも「上らないでください」って書いてましたね。

竹内:上るんですよ(笑)。




今後の「ラ・ミール」の展開


竹内:ここもまたリニューアルをするつもりで、谷尻さんともそういう話をしているんですよ。この中にまた家を建てようとか…。

――建築の中に建築を建てるというと、入れ子のようなものですか。

竹内:そうそう。入れ子は難しいという話になりましたが…ここはカフェだけじゃなく、日曜限定でブライダルや2次会などのパーティで使っていただいてるんです。通常、結婚式ってカチッとしていますよね。まずこれがあって、次はこれがあって…みたいにやることが決まっている感じですが、ここでは自分たちのオリジナルのブライダルをやりたいというお客さんが多くいますから、そういうお客さんに対応できるようにしたいと思っています。谷尻さんとも打ち合わせをしていますが、今は不景気なんで、今やるべきかどうかを検討しているところです。

――以前カフェとして使っていた向かい側の建物も、谷尻さんにお願いしたんですよね。

竹内:向かい側の建築は、この建築ができた後に改装しました。インテリアがヨーロピアン調のレストランで、パーティなどに使っています。

――「ラ・ミール」はリーガロイヤルホテル新居浜にも出店されているようですし、どんどん広がっていますね。

竹内:カフェは常に新しくないとお客さんも飽きしまうんですよ。このような建物を建てたのは、手狭になったのもありますが、お客さんのことを考えたからでもあるんです。常に新しいものを求めないといけない。もちろん、おいしいものを出さないといけないし、こだわりはあります。デザートも一から作りますし、コーヒー豆もブラジルのものを指定して買ったりしていますしね。


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・関連記事:第10回 Cafe La Miell

・関連情報:
e-komachi愛媛版 > Cafe La Miell(カフェ ラ・ミール)
suppose design office

第10回 Cafe La Miell

Cafe La Miell
[image: "Cafe La Miell" on flickr, by ida-10]



Cafe La Miell
[image: "Cafe La Miell" on flickr, by ida-10]



Cafe La Miell
[image: "Cafe La Miell" on flickr, by ida-10]



新居浜市の中心部に位置する「カフェ・ラ・ミール」は、三角形の外観が特徴的な建築です。向かい側の既存店舗が手狭になったことから計画されたこの建築では、敷地が周囲より1mほど下がっていることを逆手に取り、半地下と1階による計画がなされました。2階建てよりもスタッフの作業効率がいいことも理由のひとつです。

構成はシンプルで、半地下と1階というふたつの床の高さにあわせ、コンクリート屋根を斜めにかけています。その屋根が三角形という特徴的な外観として表れています。

自然と一体になったような外観も大きな特徴です。屋根の上には石が敷きこまれ、屋根と屋根の間には緑が植えられています。この庭は建物の中庭のように機能し、内部空間を緩やかに分け、お客さんの居場所を作っているようです。

このカフェは、特徴的な外観や居心地の良さもさることながら、一からこだわって作られたケーキやコーヒーもおいしく、連日賑わいを見せています。



設計:谷尻誠/suppose design office(構造:名和研二/なわけんジム)
所在地:新居浜市高木町4-10(地図
主要用途:店舗
構造:鉄筋コンクリート造
階数:地上1階
竣工:2006年
建築面積:230.77m2
延床面積:218.00m2

利用案内:
営業時間 9:00-23:30 ※金・土曜は~24:00
休業日 水曜日


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・関連記事:[interview vol.01]竹内陽介(ラ・ミールカンパニー)

2009年8月2日日曜日

第9回 鯛や

Tai-ya
[image: "Tai-ya" on flickr, by ida-10]


Tai-ya
[image: "Tai-ya" on flickr, by ida-10]



焼いた鯛一匹を土鍋の米の上に乗せ、ともに炊き込んだ愛媛の郷土料理「鯛めし」の専門店として評判を呼んでいるのが、松山の古くからの港町、三津にある「鯛や」です。

1日30食限定で鯛めしを提供するこの「鯛や」は、1929年(昭和4年)に建てられた木造の古民家を飲食店として使用。2階の外壁には緑青の銅板が施されています。かつての松山・三津の様子を現在に残す存在のひとつといえるでしょう。

中に入ると1階には座敷が広がっていますが、かつてこの座敷は「句会」に使われていたといいます。松山に生まれ育った俳人、正岡子規の俳諧の師である大原其戒も三津に住んでいたそうで、そうしたことも三津の町衆の俳句熱を後押ししたのでしょう。

「鯛や」は、飲食店として運営されながら、2階は昔の三津の様子などを展示する資料館として開放するなど、地域に開いた活動を行っています。三津ではこの「鯛や」を含めたいくつかの古い建築を活用した取り組みが行われていますが、「鯛や」はそれらの建築とともに、三津という地域と市民とを繋ぐプラットフォームのような役割を果たしているといえるのではないでしょうか。



所在地:愛媛県松山市三津1-3-21(地図
構造:木造
階数:地上2階
竣工:1929年

※2009年8月8日(土)~9日(日)に、「鯛や」を含めた三津の各施設にて「三津浜アートの渡し2009」が開催されます。

日時:2009年8月8日(土)・9日(日) 12:00~18:00
場所:木村邸、アート蔵、鯛や
詳細リンク三津浜アートの渡し2009 開催!!


2009年7月26日日曜日

第8回 愛媛県県民文化会館

Ehime Prefectural Convention Hall
[image: "Ehime Prefectural Convention Hall" on flickr, by ida-10]


Ehime Prefectural Convention Hall
[image: "Ehime Prefectural Convention Hall" on flickr, by ida-10]


丹下健三(1913-2005)は、日本人の中でも最も活躍し、認知された建築家といえるでしょう。丹下は大阪府に生まれ、少年-青年期を愛媛県の今治で過ごしています。丹下が育った愛媛には今治市を中心に丹下の設計した建築が複数残されていますが、松山市にあるのがこの「愛媛県県民文化会館」です。

この建築の成り立ちを考えるにあたり、1953年にさかのぼることができるでしょうか。
1953年とは、愛媛の県庁所在地である松山の中心に、多目的ホール「愛媛県民館」ができた年です。

Ehime Convention Hall, Kenzo Tange Arch. & Ass. Yosikatu Tuboi in 1953.
愛媛県民館
[出典: SHINKENCHIKU Vol.29 JULY 1954(新建築 1954年7月号) ※Wikipediaより転載]


この愛媛県民館を設計したのが丹下健三(構造家として坪井善勝)でした。丹下はこの愛媛県民館で、丹下自身初となる日本建築学会賞を受賞しています。

しかしこの愛媛県民館は、音楽専門の施設でないことからも明らかではありますが、音響の悪さなどの問題もあり、松山の中心部と道後地区とのちょうど中間あたりにある現在地に、規模を新たに移されることになりました。そこで再度、丹下に仕事が任されることになったのです。

そうして1985年に完成した「愛媛県県民文化会館」は、3000席という西日本でも最大級のホールを有しています。ホールの大きさだけでなく、前面に設けられた大きな広場や石張りの外壁などをみるとその贅沢さが分かりますが、1980年代には、丹下自身も世界各地の仕事を手がける大御所建築家として有名になっていました。そうしたところからも、当時の愛媛県の力の入れようが分かるように思われます。



設計:丹下健三/丹下健三・都市・建築設計研究所
所在地:愛媛県松山市道後町2-5-1(地図
主要用途:多目的ホール
構造:鉄骨鉄筋コンクリート造
階数:地上5階・地下2階
建築面積:2,125.7m2
延床面積:41,400.39m2(パスポートセンターを除く)
竣工:1985年

2009年7月11日土曜日

第7回 愛媛県庁舎

Ehime Prefectural Government
[image: "Ehime Prefectural Government" on flickr, by ida-10]


Ehime Prefectural Government
[image: "Ehime Prefectural Government" on flickr, by ida-10]


愛媛県庁舎は、第6回で取り上げた「萬翠荘(1922年)」を設計した木子七郎が、1929年(昭和4年)に設計した庁舎建築です。

御影石を用いた外壁や左右対称で均整の取れたプロポーションからは、西洋の洋式主義的な建築を思わせます。建築の内外に施された様々な装飾も見所のひとつで、扉やアーチ窓の周りなどには、細やかな彫刻が施されています。ステンドグラスや、ドームへ至る艶かしい螺旋階段も見逃せません。このような細かな仕事からは、建設に際して多くの優れた職人が携わっていることを想像させます。

愛媛県庁舎が建てられた昭和初期は、海外から新しい「モダンデザイン」が伝えられると同時に、明治に入り西洋から導入された古典的な「洋式」が日本で独自の進化を遂げ、それらの両者が複雑に入り乱れた状況であったといえます。このような時代に、県庁舎のような重要で象徴的な建築のデザインをする際には、西洋の「洋式」の真似をすれば済むものではありません。つまり、建築家の力量こそが問われた時代といえるでしょう。

実際に、愛媛県庁舎の建築デザインは西洋の洋式風ではありますが、この建築と同じ「洋式」が西洋にあるわけではありません。ドーム状の屋根が乗っている庁舎建築も、これだけ立派なものは、恐らく日本では愛媛県庁舎が唯一のものではないでしょうか。

県庁舎という大きな仕事ですから、設計者の木子も、自らが活躍する大舞台として腕を振るったはずです。個人的には、ドーム屋根や窓に見られる連続したアーチなどの曲線のデザインからは愛媛の南国的なやわらかな雰囲気を感じますが、大阪を拠点とした木子が松山の印象として感じたものがデザインとして込められているようにも想像されます。



設計:木子七郎
所在地:愛媛県松山市一番町4-4-2(地図
構造:鉄筋コンクリート造
竣工:1929年
備考:予約をすれば見学が可能です。(外部リンク 愛媛県>県庁舎見学のご案内

2009年7月5日日曜日

第6回 萬翠荘(愛媛県美術館分館郷土美術館)

Bansuiso
[image: "Bansuiso" on flickr, by ida-10]


Bansuiso
[image: "Bansuiso" on flickr, by ida-10]


萬翠荘(ばんすいそう)は1922年(大正11年)に旧松山藩主久松家、第15代当主久松定謨(ひさまつさだこと)伯爵の別邸として建てられた、フランス風の洋館です。現在は愛媛県美術館分館郷土美術館として使われています。

松山城の城山の麓に建つこの建築は、表通りから少し奥まったところに位置しますが、NHKスペシャルドラマ「坂の上の雲」の放送にあわせ、隣接する「坂の上の雲ミュージアム」の建設とともに周辺が整備され、あらためて注目を集めるようになったように思われます。坂の上の雲ミュージアムもこの萬翠荘を望むように窓やテラスの配置を計画しています。

建設当時は社交の場として名士が集まったそうですが、屋根に葺かれた銅板や天然スレート、玄関扉の鳳凰のデザイン、ハワイへ特別注文したとされるステンドグラスなど、当時の贅を尽くした建築といえます。

また、この建築の先進性として、鉄筋コンクリート造であるということも挙げられるでしょう。日本に鉄筋コンクリート造の建築が建てられるようになったのは20世紀に入ってからで、愛媛県ではこの萬翠荘が最初の建築だといわれています。鉄筋コンクリート造の耐久性や耐震性が評価されるようになったのは1923年の関東大震災の後といわれますから、それ以前に建てられた萬翠荘は、そのデザインだけではなく、技術の上でも当時の最先端だったといえるでしょう。


設計:木子七郎
所在地:愛媛県松山市一番町3-3-7(地図
構造:鉄筋コンクリート造、屋根小屋組は鉄骨造
階数:地下1階、地上3階
建築面積:409.91m2
延床面積:887.58m2
竣工:1922年
備考:国重要文化財(2011年指定)、愛媛県指定有形文化財(1985年指定)

2009年6月27日土曜日

第5回 エリエール松山ゲストハウス・エリエール美術館

Elleair Matsuyama Museum of Art
[image: "Elleair Matsuyama Museum of Art" on flickr, by ida-10]



Elleair Matsuyama Museum of Art
[image: "Elleair Matsuyama Museum of Art" on flickr, by ida-10]



Elleair Matsuyama Museum of Art
[image: "Elleair Matsuyama Museum of Art" on flickr, by ida-10]




今回は前回に続き、松山の「安藤建築」の紹介です。

松山市のはずれに位置するこの建築はさながら山上の古城のようで、遠くに瀬戸内海の風景を望むことができます。
「エリエール松山ゲストハウス・エリエール美術館」は、ゴルフ場(エリエールゴルフクラブ松山)に隣接したゲストハウスと美術館です。ゴルフをプレイしなくても美術館には入館できます(入場無料)。

建築家・安藤忠雄の建築の中ではさほど取りざたされる建築ではないかもしれませんが、美術館に入ると、自然光の入る展示室、水盤と滝に囲まれ、大きな窓から日光が降り注ぐカフェなど、瀬戸内の環境に呼応したような気持ちのいい空間が展開されています。


設計:安藤忠雄建築研究所
所在地:松山市柳谷794-1(地図
主要用途:宿泊施設、ギャラリー
構造:鉄筋コンクリート造、一部鉄骨鉄筋コンクリート造
階数:地上6階、地下1階
竣工:1998年
外部リンク:エリエールスクエア松山 エリエール美術館

2009年6月14日日曜日

第4回 坂の上の雲ミュージアム

Sakanouenokumo Museum
[image: "Sakanouenokumo Museum" on flickr, by ida-10]


[image: "坂の上の雲ミュージアム3" on flickr, by naoharu_tatara]



Sakanouenokumo Museum
[image: "Sakanouenokumo Museum" on flickr, by ida-10]




司馬遼太郎の小説『坂の上の雲』は、松山に生まれ育った正岡子規、秋山好古、秋山真之を中心的登場人物として明治時代の動乱を描いた小説です。
この建築を設計したのが建築家・安藤忠雄。日本を代表する、世界的に著名な建築家のひとりです。安藤が指名されたのには、大阪の「司馬遼太郎記念館」の設計を担当したという経緯があるようです。

この建築は、大正時代の洋館「萬翠荘」や、子規と漱石とが共に暮らした「愚陀仏庵(ぐだぶつあん」のある松山城のふもとの一角に建てられました。

室内の展示室には、坂の上の雲を軸とした明治期の史料などが展示されています。三角形の平面形をしたこの建築は、床のタイルも三角、天井に空けられたトップライトも三角、と至る所に三角のモチーフがあらわれます。三角形の平面は敷地の形状から構想されたそうですが、子規と秋山兄弟という「3人」を表している、と想像することもできるでしょう。また、その三角の一辺には大きな開口が設けられ、「萬翠荘」と城山の緑を一望できるようになっています。

3・4階を繋ぐ階段も、この建築のみどころのひとつです。吹き抜けを突き抜け、上下階を繋ぐコンクリートの階段は動的で力強く、まるで『坂の上の雲』の時代や人々の精神性を表したようにも思えます。

このように、「坂の上の雲ミュージアム」は訪れる人々に様々な解釈・思いを描かせるような「詩的な」建築ということができるのではないでしょうか。



設計:安藤忠雄建築研究所
所在地:松山市一番町3-20(地図
主要用途:博物館
構造:鉄筋鉄骨コンクリート造 一部鉄骨造
階数:地下1階 地上5階 塔屋1階
建築面積:936.80m2
延床面積:3,122.83m2
竣工:2006年
外部リンク:坂の上の雲ミュージアム

2009年5月24日日曜日

第3回 亀老山展望台

[image: "IMG_0010" on flickr, by Siren Fay]



[image: "Kirosan Observatory" on flickr, by ida-10]



[image: "Kirosan Observatory" on flickr, by ida-10]




建築家・隈研吾が手がけた展望台が、本州と四国を結ぶ「しまなみ海道」の道中、大島の亀老山(きろうさん・きろうざん)の頂上にあります。標高307メートルの山の頂上にあるこの展望台からは、来島海峡を眼下に、瀬戸内の風景を臨むことができます。

「展望台が地中に埋められている」――それがこの建築の最大の特徴です。山の頂上には展望デッキがちょこんと乗っているだけで、建築の「かたち」を確認することはできません。いわば「隠された」建築です。こうした「建築を隠す」という手法は、建築家・安藤忠雄の設計した「地中美術館」(香川県直島町)など、現在では様々なところで目にするようになりました。

こうした姿勢が見られるようになった背景には、展望台が建てられる数年前に起こった、バブル経済の崩壊がひとつとして考えられます。バブル経済期には、過剰な装飾を施した建築など「存在感を過剰に主張した建築」が多く建てられました。そしてバブル崩壊の後には、公共建築をはじめ「建築を建てる」ということ自体に批判の目が向けられるようになったのは周知のとおりです。

この建築には、そうしたバブル期の状況に対する反省が含まれているのではないでしょうか。主役は展望台それ自体ではなく、瀬戸内の風景であり、亀老山にも「飾り」としての建築はいらない――それがこの「隠された」建築の主張といえるのではないでしょうか。


設計:隈研吾
所在地:今治市吉海町(地図
主要用途:展望台
竣工:1994年

2009年5月17日日曜日

第2回 伊丹十三記念館


[image: "Itami Juzo Museum" on flickr, by dragonsfanatic]



[image: "Itami Juzo Museum" on flickr, by dragonsfanatic]



チョコレートケーキは記念館の建物を模したデザインです。

[image: "Cafe "Tampopo" at Itami Juzo Museum" on flickr, by dragonsfanatic]



映画監督、商業デザイナー、エッセイスト、俳優など「13」の顔を持つと言われている伊丹十三の記念館です。伊丹の「13の顔」にちなみ、この記念館には13のコーナーが造られています。
建築を設計した中村好文(-よしふみ)は若い頃から伊丹十三のエッセイを愛読してきたそうで、展示室のデザインも中村の手によるもの。引き出しを開けると出てくる展示品など、随所に工夫が凝らされています。
展示室を抜けるとそこにはぽっかりと中庭が空に広がり、その周りを廻廊が取り囲んでいます。フランスやイタリアの修道院の廻廊から着想したというこの空間は、日常とは切り離された静謐な場所を意図しているそうです。
展示品はもちろんですが、建築や展示室、そして、手渡される案内や館内のカフェメニューなど随所に優れたデザインが散りばめられている点も見逃せません。


設計:中村好文
所在地:松山市東石井1-6-10(地図
主要用途:個人記念館
構造:鉄筋コンクリート造 一部鉄骨造
階数:地上2階
建築面積:723.49m2
延床面積:860.90m2
竣工:2007年
外部リンク:伊丹十三記念館

第1回 日土小学校



「日土小学校」は、愛媛県大洲市出身の建築家、松村正恒(-まさつね、1913-1993)が八幡浜市役所建築課に在籍時に設計した小学校です。
松村は1960年、『文藝春秋』の特集で、故・丹下健三らと並び日本を代表する10人の建築家に選ばれたほどの実力者です。しかし、名をあげることを嫌った松村は、自らを「無級建築士」と名乗り、その後メディアから消えてゆきました。
それでも実力ある松村のこと、晩年には松村の再評価の動きが起こります。そして没後の2000年には、モダニズム建築の記録・保存のための国際組織「ドコモモ(docomomo)」により、松村の建築が「日本の近代建築20選」に選ばれました。その建築が「日土小学校」なのです。
日土小学校は一見すると普通の小学校に見えますが、現代にも通じるデザイン性、「クラスター型」と呼ばれる斬新な教室配置計画、大工の経験技術と構造力学の融合など、建築の細部を見ると、そこには松村のデザインがつぶさに込められています。
それらのデザインは何より、ここで学ぶ子どもたちを思ってのことでしょう。緩やかな階段や、窓を大きく取った教室などに注目すると、その意図は明らかです。そして何より、川面に張り出されたテラス。この場所は、子どもたちにとって、とっておきの場所ではないでしょうか。


設計:松村正恒
所在地:八幡浜市日土町2-851(地図
主要用途:小学校
構造:木造
階数:地上2階
竣工:1956年(中校舎)、1958年(東校舎)
※2009年現在、保存改修と増築工事の実施を迎えています。